吾輩はハリネズミである

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『推し、燃ゆ』は現代の写し鏡 ― かつてアイドル"推し"だったオタクが書く あらすじ・考察・感想

第164回芥川賞を受賞し、2021年本屋大賞にもノミネートされた、

宇佐見りんさんの推し、燃ゆ

 

www.kawade.co.jp

 

私が手にとったものには大きな帯がつけられ、朝井リョウさんや島本理生さん、高橋源一郎さんなど名だたる文学界の巨匠たちから絶賛のコメントが寄せられていた。しかも、初版が昨年の9月30日であったにも関わらず、3月14日で早くも39刷を向かえるようだ。

まわりの本屋でも売り切れが相次いで入荷待ちの表示をいたるところで見かけていたので、文学に疎い私でもその話題作のことは以前から認知していたほどである。

つい先日運よく入手する機会があったので、"逆張り"の私にしては珍しく素直に、賞賛やまないこの作品を自身の目で確かめたいと思った所存である。

 

以下、あらすじ。

ややネタバレを含むので未読の方はご注意。行間を取る。

 

 

 

 

 

 

あらすじ

胸の位置でペンライトを持つアイドルファンのイラスト(女性)

 

アイドルグループの男性アイドルを推す女子高生の話である(が、このイラストほど明るい話ではない...)。

物語はその"推し"がファンを殴って炎上するところから始まり、一人称「あたし」の語りによって進んでいく。

「あたし」はどうやら発達障害を抱えているらしく(作中でも示唆されている箇所がある)、何をするにも効率が悪く処理能力も低いので、人並みの成果を出すことができない。それを自覚してはいるものの、努力ではどうにもならない。学校の先生やバイト先の客、店長や奥さんは憐み、蔑み、同情する。家族からも怒りを買い、呆れられ、諦められる。

 

現実ではすっかり居場所も存在価値も見出せない「あたし」であるが、"推し"のことになるとたちまち別人のように生き生きとし始める

推しと同じ世界を見ることで彼女の心は熱を持つ。「あたし」は鋭い観察眼で推しの言動を何一つ見落とさないし、推しの「解釈」にはファンの中でも一目置かれている。

お金も時間も感情も、全てを推しに注ぎ込み、それを生きる理由としていた

 

しかし推しの所属するグループは解散を発表し、推しは一般人に戻って家庭を築き始めた。

「あたし」は急に生きる理由から切り離され、遺影のようになった推しのコレクション、荒れ果てた部屋、高校中退、無職、誰からも見捨てられた無能な自分という現実に置き去りにされたのだった。

 

 

つまり、推しが燃える(炎上する)話というよりは、その燃えた彼を熱狂的に推してきた女の子の話である。後述の感想にも書くが、描写はもとより元アイドルオタクをやっていた身としてはなおさらリアルに感じる部分が多かった。

以下、私なりに考えたことを記していきたい。

 

 

 

考察

歪んだ自己愛、自尊心

 

やはり、なにより現実における「あたし」と推し事(推し活)での「あたし」のコントラストが印象的だった。

 

現実では愚鈍という言葉を体現したような彼女は誰からも理解されず、必要ともされず、自身もそんな自分を嫌っている。

 

一方で、推し事では推しの心情や考えに非常に敏感で、実際グループメンバーの推しに成り済ましたツイートにいち早く気付いたり、会見で発言するであろう内容をドンピシャで当てたりする。

推しのことを何より大事にし、母性に近い感情を抱き、深く理解しているのだ。

 

同時に、推しに強く感情移入し、現実での彼女は感情をほとんど発露させないが、推しの喜びや悲しみ、痛みは自分のことのように享受して感情を消費する。

 

これらの推しへの強い自己没入、同一視は彼女が現実で逃避したことや諦めたことを達成する手段であって、推しは自分ができないことや得られないものを託し、代わりに叶えてくれる存在になっているのではないだろうか。

それらは周囲からの理解、自己肯定感の獲得などといった、本来生の肯定に欠かせないものである。

だからこそ、肉体を支え動かす"背骨"のように、推しは「あたし」の生きる意味そのものだったのだろう。

 

 

不安定な生きがい、居場所

だけで, 悲しい, うつ病, 孤独, 若いです, 意気消沈した, 女性, 思考, 不幸です, ストレス, 式

 

このように「あたし」の生きがいであった推しだが、その関係は突然、一方的に切断されてしまう。

一般人に戻ったことでたちまちこれまでのように推すことができなくなってしまった。引退や結婚、スキャンダル、逮捕、病死など、芸能人が表舞台から姿を消す理由は実にさまざまであり、輝きを放っていられる時間は往々にして短命である。

 

加えて、推しのことは誰よりも分かっているはずでも、推しとファンという不均衡な関係である限り解釈できない部分はどうしても生じてしまう。

例えば、結局推しがファンを殴った理由は分からないままであるし、トラウマだったはずのぬいぐるみが配信でソファの上にあった理由も、トラウマを克服したのかも、「あたし」の知るところではない。

 


その上、とどめを刺すようだが、もう"人になった"推しの解釈は今後一切できない。「あたし」がすべてを懸けていたのは刹那的で脆く不完全な偶像であったのだ

 

また、作中登場する推し仲間の成美も、友人とは呼び難い。推し事に関する話題を共有するだけの関係で、それ以上はなにもない。互いに深入りしないし、用があるときは相手を気に掛けるが、そうでないときは至って無関心である。

それが顕著に表れたのが祖母を亡くした「あたし」と、推しとの交際秒読み報告の電話をする成美のシーンであろう。「あたし」は自分や家族が置かれている事態を成美に伝えることもなく、悲しみに暮れる母や姉がいるなか場違いとも言える話題で盛り上がる。

成美のほうも「あたし」が退学して一緒に登校できなくなったことを寂しいとはいうが、「いろいろあるんよ」「そうな」以上に、会わなくなってずいぶん経つ「あたし」の近況を聞き出そうとすることもしない。

 

さらに、「あたし」を慕う人たちが集う、いわば唯一彼女の居場所であったTwitterやブログなどインターネットの世界も、言うまでもなく不安定で虚偽であふれた世界である。

 

 

 

感想

読後すぐに口から零れ落ちたのは、「なんだ、これは」という絶句に近い呟きだった。生々しくて圧倒的。読者を「あたし」の視点に強く引き込む。先ほど簡単にあらすじをまとめたけれど、私はこの本を十分に理解するまでまだ何度も読み返す必要があるだろう。

 

タイトルなどでも触れている通り、かくいう私もかつて某国民的アイドルグループのファンをやっていたことがある。

「あたし」ほどのお金や時間を費やしていたわけではないが、CDやBlu-rayの初回限定盤購入に加え、メンバーが出るテレビ番組やCMはリアタイ視聴もするけれどダビングして保管、ラジオ番組は文字起こしして保管、活動開始から私がファンになるまでの約10年間に出演したドラマや映画もすべて見た。

持ち物はできるだけ推しの担当カラー(アイドルグループには大抵メンバーごとにイメージカラーが設定されている)を身につけるようにした。ライブ会場にはグッズを買うために朝6時前から並んだこともある。

そんな生活だから、まだアルバイトもできない年齢だった自分はお金推し以外にはほとんど出費しなかった。というか、それ以外に興味のあるものがなかった。

 

精神面においても、推しを見境なく肯定するわけではなかったけれど、人間として・人生の先輩としても尊敬していたし、否定されているのを見るのは耐え難いほど辛かった。推しには少し素直じゃない部分があったけれど、本当にうれしいときに見せる照れ隠しみたいな笑顔は、(ちょっと恥ずかしい表現をしてみれば)私自身の喜びでもあった。

推しは、性別は違えど、理想の自分を投影させたような存在だったんだと思う。

なれるなら推しになりたいと思った

それはアイドルとしてキラキラのステージで歓声を浴びたいということではなく、推しのどこか達観したような考え方を会得したいとか人を笑わせるユニークな切り返しができるようになりたいとか仲間を大切にできるようになりたいとか、やっぱり人間として尊敬しているから生まれる感情だ。

だから、その理想の自分には笑顔でいてほしいし、傷つけるものがあるなら許せなかった。私が代わりに怒ってやる、という気持ちですらいたかもしれない。

だからなのか、推しと付き合いたいとか結婚したいとは思わなかったし、恋愛報道が出ても推し自身が幸せならそれで満足だ、というスタンスだった。実際、のちに結婚して子どもも授かったようだけど、自然とおめでとうという言葉が出たし、素直に嬉しかった。

 

 

総じて、「あたし」とは推しへの考え方もかなり近いものがあって、終始過去の自分と重ねて読み進めていた。

私はほかにも好きなものが少しずつ増えて推し、というか推すこと自体への依存に近いような生活からは今ではすっかり抜け出せたけれど、仮に最も熱心に推していた時期にグループが解散したり芸能界引退を発表したりしていたら、と考えると、それこそ「あたし」のようになっていたかもしれない。

だってそれは、推しという自分の理想を眺めて充足感を得る、耽美的な時間ごと失うことになるのだから。お金や時間や手間を何にかければいいのか、つまり何のために生きればいいのかわからない状態へ放り出されることを意味するから。

今は「そんなの、未来の自分のために投資すべきに決まってるじゃないか」と思えるけれど、当時の自分には無理だったんじゃないかと思う。とにかく必死だったから。

 

 

それから、恐ろしさを感じるのは、「あたし」がさほど特異な存在でないことだ。

ファンがみんなここまで熱狂的というわけではない。ましてやすべての人に推しがいるわけではない。

けれども、無能で主体性のない社会の中の自分、自尊心や自己愛をいびつに満たしてくれる推し、実物と乖離したインターネットの自分像、うわべだけの友人関係など、私たちは彼女をフィクションだと切り捨てることはできないのではないだろうか。だからこそこの作品が多くの人々の共感や支持を得ているのではないだろうか。

 

個人的には、作者の宇佐見りんさんが21歳にしてこれを書き上げたことに驚きを隠せない。時代を捉えるセンスとリアリティ溢れる豊かな表現力を、この年で身につけられるものなんだろうか。

こちらも面白かったので、宇佐見さんのインタビュー記事を貼っておく。「一方通行」の関係だからこそ救われるというのも、現代の人間関係らしさを感じる。

これ以外にもインタビュー記事をいくつか見かけたので、それらにも目を通してから再読したいと思う。

 

宇佐見りんさん「推し、燃ゆ」インタビュー アイドル推しのリアル、文学で伝えたかった|好書好日

 

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読み直したい点(自分用メモ)

「肉」

作中よく見られたのが「肉」の表現である。「肉の重さ」など、現実世界の「あたし」の、肉体を伴った生に対する仰々しいまでの倦怠感、嫌悪感の表れに感じた。

「肉体に引きずられる」という表現の意味するところをニュアンスでしか捉えることができなかったので、言語化できるくらいまでには咀嚼したい。

 

 

父の推し(?)声優へのおじさん構文コメントと現実の齟齬への言及

この箇所もニュアンスでしか捉えられなかったので読み返したい。

「あたし」は自分に説教する父も、自分と同じように違う顔を持っていることを皮肉だと感じたのだろうか。しかし父と声優の関係には、「あたし」と推しの関係ほどの切実さや切迫感がない。

本質から異なっているように感じるが、これの意味するところは何であろうか。

 

※ 2021年3月7日 一部加筆しました。